コメント

このプロジェクトはとにかく楽しい。
扱っているのは「死」であり、翻っていえば「生きること」だ。
それでも友達の家で8ミリ上映会をわいわい見ている気分に近く、心地いい。
それは、「さりゆくもの」たちへ「遺されたもの」たちが「どう関わりながら生きていくのか」についての問い方の暖かさに他ならない。

――瀬々敬久(映画監督)

自分が商業映画の俳優を始めて程なく女優・葉月螢と出会った。ほたると名を変えて久しいがその間二十余年、ずっと彼女の事をうまく説明できずにいる。何十回共演したかわからないが、本当にそうなのだ。少し怖くもある。今回の短編集を観て益々惑わされた。ジャンルや表現の強烈な振幅の只中に身を投げ、常に「空っぽの器」として総てを受け入れてしまう彼女はまだ、底を見せてはくれない。

――川瀬陽太(俳優)

「短篇集 さりゆくもの」を見て思いました。さりゆくものの世界って地層のようにどんどんとパラレルに折り重なっていくようです。重力に逆らっては生きられない私たちは、積みあがった、さりゆくものの地の上で生きていく。地の上は決して美しいだけの場所には思えないけれど、不確かなその先に悲しみのかすかな光が小さな希望のように見えたような気がしました。

――橋口卓明(映画監督)

いやあ、参った。参りました。 ほたるプロデュース「さりゆくもの」は、ほたる自身の監督作を含めて5本の短編が収められているが、どの作品も、個性的で、魅力的。ジャンルの垣根を飛び越えて、脳天に突き刺さってくる。 いやあ、参った。参りました! コロナ禍の中、ソーシャルディスタンスをとりながらの映画鑑賞にも、最適の一本です。

――小林政広(映画監督)

「いつか忘れさられる」。生々しい、映画だった。サイレントで延々続く家族の朝の儀式を、自分もその食卓に参加して体感させられるような・・・この生々しさは何かに似ている、何だろう?と考えていたらわかった。ピンク映画の「ラッシュ」を見ている時の感覚にそっくりだったのだ。音がつき、アフレコのセリフが入り、映画としての結構が整えられていくにつれ失われる「生々しさ」と「強度」。今はピンクも同録と聞くが、かつてあったその感覚を、ほたる監督は取り戻したかったのか・・・

――常本琢招(映画監督)

みんな去っていくんだよね。見送っているうち、いつのまにか新しい命が背中に追いついて、自分も見送られる側なんだと気づく。愛したり愛されたりしながら、おれもあなたもみんな彼岸へ流されてしまう。この映画を見ながら、そんな儚さをずっと感じていました

―――港岳彦(脚本家)

「八十八ヶ所巡礼」の重要なシーンで流れる音楽を担当したバンド、その名もまた八十八ヶ所巡礼の略称は、「88」。八十八ヶ所巡礼っていう言葉ができた頃、日本に未だアラビア数字は入ってきていなかったはず。なのに。

88
∞∞

昔の人は、想像しただろうか? 未来の日本に入ってくる異国の数字で、「八十八」をこんなふうに書くだなんて。さりゆくものは、めぐる。向き合い、寄り添い、解き放たれて。

―牧村朝子(文筆家)

手紙。
遺志はおそらく、耳をそばたてる者にしか囁かれない。
浴室に沈む死体のように、暴力を忘れ生きる人間の人生の背後に、数重なる耽溺のノイズの底に。遺志は、いつの間にか硬く沈む。
囁きが、なにかを喪う覚悟で感覚を凝らさなければ対峙できないとする人生の態度は、恐らく映画のフィルムでなにが映せるのかという問いと、じっと正座し待つほたるの立ち姿に通っているのかもしれない。ただそれはまだどちらかといえば、櫻井拓也の寒空の苛立ちの人生と、小野さやかの、世界の豊穣に出逢う喜びとに、感情移入してしまう自分にとっては、未だ分からない心境なのかもしれない、が…。
大事なひとが戻ってきていないことを、失語で見つめつづけることは、沈めることではない。
映画の無言のはじまりが、竹浪春花の素晴らしすぎる言葉で掘り起こされる瞬間に泣いた。

―木村文洋(映画監督『息衝く』)

傑作とは流行と関係なく突然やってくる。映画『短編集 さりゆくもの』は、その5本どれもが誰も想像できなかった個性的な作品集。うち3本にほたるが主演・共演。35mm+DCPという上映形態がいい。
それは1本目の「いつか忘れさられる」(監督・ほたる 撮影・芦澤明子)がフィルム撮りのサイレント映画だからだ。フィルムで撮った映画をフィルムで映写する。その映写方式自体が惜しむらくも「さりゆくもの」なのだ。

1本目の『いつか忘れさられる』から、2019年に急逝した櫻井拓也が主演の5本目の『もっとも小さい光』(監督・サトウトシキ)まで、どういうめぐり合わせか、さりゆくものたちの映画、死の匂いが立ち込める作品集になっている。

この作品集は、失われた時をもとめない。失われたものを記憶する者が次々とバトンタッチして最後には結局みんな失われていくと静かに示しているだけなのだ。滅びの美学というが「美」と賛美しないところが深い。

だから心にずん、と残る。これはぜひ映画館で見た方がいい。

―――辻豊史(映画監督『戦車闘争』)

「ほたるさんのは、最初音がしなくてびっくりした。小野さやかのは、山田さんとやっちゃうんじゃないかとドキドキした。山内さんのは、ぶら下がったトイレットペーパーが怖かった。小口さんのは、狂ってて笑った。トシキさんのは、櫻井くんに会えて良かった」

――いまおかしんじ(映画監督)

ほたるは罪な人だ。助監督として、監督として、ボクは主演である彼女に全く気を使ってきませんでした。橋から飛び降りてもらった時も相手役の俳優さんから断られても彼女にはそのまま飛び込んでもらいましたし…。どんな過酷な現場でも彼女はいつも紛うことなき「葉月螢」としてカメラの前に存在し続けてくれました。おかげで彼女のようなスタンスで映画に関わってくれない俳優さんにはすっかり物足りなさを感じるようになってしまいましたが…。どんなことでも受け入れてしまえる彼女の人間力はこの短編集でも遺憾なく発揮されていました。こんなバラバラな作品群を頓着なしにひとつにまとめてしまえるなんて! きっと誰も彼女に気なんて使ってなかったんじゃないでしょうか。じゃなきゃ、こんな鮮度のいい映像群が生まれるはずがない! 去り行くものたちなのにみんなピチピチしてる。全編見終わったら、なんだかバカ兄弟を見送るほたるさんの溌剌とした表情が浮かんできました。ある意味、ボクにとっては「兄嫁」の新作を見たようなウキウキした心持ちです。

――女池充(映画監督)

降りつもる雪に家族の声は吸いとられても「いつか忘れさられる」ことには抵抗する、その瞬間だけは残る、それがフィルムの力だと、ほたる監督は知っている。感光する夢。映画への信。その強度。

――黒川幸則(映画監督/キノコヤやってます)

さりゆくもの。
そんな悲しげなタイトルがついているが、不思議とどれも明るい感じがする。
暗い話のように見えて希望のある結末だったり、あっけらかんとしていたり、過度なまでにユーモラスだったり。
でも、一番は、それを創り出した空間、自主映画の貧しいながらも楽しい現場の空気が伸びやかに感じられるからだ。
そして、そこには、ほたるさんの持つ柔らかさと強さと、みんなの映画への想いが溢れている。こんな時代だからこそ伝わる映画の力がある。

――石山友美(映画監督)

オムニバス映画というと、どうしても散漫な印象を持ってしまう。
事実、この映画もそうで、あまりのめり込むこともなく、最初は漠然と見ていた。
ところが、三本目の「ノブ江の痣」あたりからぐっと引き込まれ、四本目の「泥酔して死ぬる」で完全にやばいものを見ている感覚になった。
こういうザラザラした映画体験は本当に久しぶりで、もっともっとアングラな気分に浸っていたかった。

――井土紀州(映画監督/脚本家)

最近、『晩春』で笠智衆演じる役が自分より年下だと気づいた。ぼくももさりゆくものの仲間入りか。
そんなときに見たのがこのオムニバス。ほたるさんがとことん不幸な女を(『ノブ江の痣』)、そして母親を(『いつか忘れさられる』『もっとも小さい光』)見事に演じている。さらに二人の女性監督に劇映画の枠をはみ出す作品を依頼している(『八十八ヶ所巡礼』『泥酔して死ぬる』)。まったくタイトルに偽りありだ。さりゆくどころか、映画の世界に堂々と居座り続けようとする者じゃないか。しかし、それでいいのだ。しぶとさの方が映画にはよく似合う。

――井川耕一郎(映画監督/脚本家)

東日本大震災により日本人は心に癒えることのない傷を抱えて生きているのではないだろうか。
そしてそれは震災から10年を過ぎた現在も変わらない。
そんなことを考えながらこの映画を観た。
いなくなったあのひとが、のこしてくれたものがたり。は残されたものたちの去っていったものたちへの愛である。
その愛は、誰にも語らずの胸の奥に抱え続けるものもあれば、たんたんと思い出を語ることで自分自身を癒やそうとするものもある、また、歪んだ愛情になり去りゆくものを追い続けるものもいる。
ほたる監督・脚本・出演の「いつか忘れさられる」は去っていったものへの言葉では語り尽くせない強い思い故にサイレント作品、という表現手段にしたのだろうか。

――北沢幸雄(映画監督)

「いつか忘れさられる」雪景色が映画をこんなにもワクワクさせるものだろうか。祷キララさんが名前の通り全編キラキラしている。撮影の素晴らしさに、ミステリアスな干し柿のカットに陶然とする。ほたるさん、とっても良かったです。

――鎮西尚一(映画監督)

「映画の中にあるものは永遠なのだ。少なくともそう思いたいという観客は、私含め存在しているに違いない。」

――切通理作(評論家)夜間飛行メルマガ「映画の友よ」より抜粋

ひとりの主張を押しつけるのではなく、五人各様が賑やかに主張する。「三酔人」いや「五酔人経綸問答」だ!見透かされる前にさっと引く時間もいい。何よりもタイトル「さりゆくもの」がいい。一見、バラバラな五本がこのタイトルに集約されていく。一気呵成に読める短篇集だ。こんな映画もあっていい。もし、シリーズ化されるなら「さりゆきそこなった」俺にも撮らせてくれ。

――佐野和宏(映画監督/俳優)

映画が始まった時、私は懐から買ったばかりの数珠を取り出し握りしめていた。このタイトルから「何か」を覚悟していたから。
しかし短篇が進むに連れ、解れていく気持ちが握った数珠に流れ込んでいった。
この作品はさりゆくものにとって灯台のような感触だと思ったが、見終わるとその逆で、さられた人にとっての灯火のような感触に変わっていた。
そして「さりゆくもの」にずっと囚われているのではなく(忘れてしまう事に罪悪感を持ち続けるのではなく)、そこから一歩ずつでも前進していくのが生きていくって事なのかなと、週末父の一周忌法要があるのに田舎に帰れなくて後ろめたさを抱えていた私自身に言い聞かせてみた。

――佐倉 萌(女優)

五者五様の去りゆくものへのまなざしが、はかなくも可笑しい。
ビックリハウスのようなオムニバスでした。

――七里圭(映画監督)

ほたる組は35ミリフィルムで撮影されて映写もこのパートのみ35mmfilmで映写された。映写という作業、公開という作業は、映画公開における最後の作家的過程なのだが、デジタル映写が殆どの今、うるさい一言ある映写技師は消え、機械的な音も画もボタン一つでレジを押すような担当だけになった。これによって全国どこで見ても同じという、のっぺらぼうな環境になった。ぴんくりんくの太田氏は映写技師でもあるところから映画製作に乗り出した出自の為、映画館や映写技師を巻き込むことで映画に最後の立体性の息吹を与えることが良く分かっている。ほたる組以外はフィルム上映で無いもののそれぞれ独自のスタイルでの映画作りをして、劇場はそれに応えている。このダイナミックな映画館体験をこの素晴らしい環境の劇場で是非ともお勧めいたします。この小屋は音も画もとても良いと思います。それゆえ、音のないほたる組は、音のない音を選んだ事で、逆にかなり饒舌に感じました。

――荒木太郎(映画監督)

さりゆくもの 私は映画館で日本映画を観るのは苦手。漫画が苦手な事と多分同じ感覚だ。 国語が苦手なので、台詞も映像も音楽までも表現される映画はシンドイ。 でも、数少ない友人であるほたるの映画を観ないという選択肢は無い。 そう言えばサイレントって言ってたなぁとか、扱った物語の断片を聞いてたなぁとか思いながら、友人と言いつつ耳を傾けていなかった事を反省した。 映画や写真がフイルムで撮る時代にカメラの前に立っていた私には、サイレントに違和感が無い。 いや、それ以上に、とても新鮮な緊張感の中で観る映画が心地よい。 映画がどうして苦手なのか、ちょっと理解できた気がした。 そして、いい加減若くない自分がほたるの話をキチンと聞けていないことが何だか恥ずかしい。 さりゆくひとなどと言いながら、ほたるの生への執着は何だか温かく感じている。 友人としてずっと近くで見守っていたいと思った。

――河名麻衣(女優)

ほたるさんの映画はもとより、番組全体が想像以上によくまとまった面白い内容でした。
「さりゆくもの」という企画のテーマは「愛と死」ということかもしれませんが、 20年前は家族の崩壊や関係の不可能性についてよく語られていたのが、ほたるさんもトシキさんもひとめぐりして家族の喪失だけでなく回復の物語を語っているのが印象的でした。
あるいはこれはほたるさん固有の指向やテーマということなのでしょうか。

「いつか忘れさられる」は家族の死という重いテーマを扱いながら、娘の視点がひとつのポイントになって、家族がひとつの宇宙であるように感じられる稀有な瞬間がありました。
登場人物が言葉で語らない分、古い日本家屋の陰影とまぶしいほどの雪景色を見事にとらえたカメラがなんともいえない雄弁さで語っているようで。
母を見つめる娘の無垢で深みのある視線が目に焼き付きました。
父は慟哭し、母はじっと耐える……これも凄いなと思いましたが、彼岸で息子を迎える母の笑顔がすべてを物語っているようで。
息子の足音を聞いてゆっくり振り返るほたるさんの顔をじっくりアップで撮ってみたいと思いましたが、これは部外者の勝手な妄想ですw

トシキさんも相変わらず見事で……もはや名匠の領域ですね。

――福原彰(映画監督/脚本家/新東宝映画プロデューサー)

色々なジャンルの作品があり、素直に楽しめた五本立てでした。

ちょっと笑えて、ちょっと怖くて、ちょっと狂ってて、ちょっと人を好きになって…

― そして最近、身近で逝ってしまったあの人の事をちょっとだけ考えさせてくれました。

――高柳哲司(アニメーション演出家)

「さりゆくもの」を観てから2週間近く経った。それぞれの作品についてはもはや忘れかけているところもある。早すぎると思うが、日々なる忘却。
5編の映像の断片が混ざりあい浮かんでは沈み、そこにあの日の新宿の風景までもが混入して、まるで新しい1本の映像みたいになっている。それは脳内スクリーンで上映される自分にしか見ることのできない映像だ。
この5本の短編も誰かの脳内の映像を見るような肌触りをここかしこに感じた。そういう肌触りは大好きだ。半透明の羊羮を光に透かしたような密な奥行きがあって、しっとり、ねっとり。映画館で味わえて良かった。

――向井三郎(画家)

新宿での最終上映日にすべり込みで間に合った。
最初の短篇「いつか忘れさられる」は、不在の家族をめぐるサイレントフィルム。人の営みは淡々と続いているが、家族の会話は聞こえない。皆が集ってもどこかがらんとした居間、光が反射する壁など、家の描写がいつまでも目の裏に残る。サイレントであることが、家を浮き上がらせたのだろうか。
仏間には亡くなった家族の写真が額に入れて掲げられていた。すべての人はやって来て去っていく。
「短篇集 さりゆくもの」の5篇は、切なく愛しく、時にはぎょっとし、滑稽でもあって、その度に私はジンとしたり、笑ったりしながらスクリーンを見つめていた。
今、こうやってそれぞれの感触を思い起こすと、映画こそが「さりゆくもの」なのだと気づかされる。
スクリーンに掲げられた一篇一篇が、部屋に掲げられていた去っていった人たちの写真と重なっていく。
そして映画館とは、すべてを収める家のようにも思えてくる。

――井川淳子(美術家)

90年代の初め頃だったか、お茶の水のアテネフランセに通っていた頃、フランス語原典講読の授業でヒチココ=オークシアンhitchcocko-hawksienという形容詞を習った。シネフィルを自称していた講師の解説によると、それは日本語ではヒッチコック=ホークス主義と訳すのだが、ヌーヴェルヴァーグの作家たち、とりわけトリュフォーが好んだ用語で、映画作品の価値を決めるのは、女優や俳優でも、有名な原作でもなく、なにより映画監督であるという主張だということだった。ヌーヴェルヴァーグの作家たちは、「映画監督」よりも「映画作家cinéaste」という語を好んだ。いわゆる作家主義というやつだ。
 20代そこそこだった私は、なるほど映画とは奥深いものだと感心したものだったが、ちょうど同じ時期、同じ施設で、「新日本作家主義列伝」と銘打たれたピンク映画の特集上映が行われていたことに気づくだけの感性を、当時の私は持ち合わせていなかった。ポスト=ロマンポルノ時代に「ピンク四天王」と呼ばれた、強烈な個性を持つ(それゆえ一般の客がつかない)四人の映画作家たちを特集したこの企画が、当時いかに画期的なものであったのかを聞かされるのは、それから何年も後のことであった。
 『短篇集 さりゆくもの』のラストを飾る「もっとも小さい光」のサトウトシキはまさにピンク四天王の一角である。また、この短編集の発案者であり「いつか忘れさられる」を撮ったほたるもまた、ピンク四天王たちに愛された異端の女優だ。そのようなスタッフの性質もあってか、この短篇集では、それぞれの監督の個性が激しく四方八方にせり出してくる。まさに「作家主義的な」と形容したくなるような、五者五様の世界観が強烈にぶつかり合う、印象的な小品集である。
 ほたる監督の「いつか忘れさられる」は、35mmフィルムの質感にこだわった作品だ。そしてそのフィルムならではの美しさに抒情性と詩心を与えているのは撮影監督芦澤明子のカメラだろう。ほたるはこのフィルムならではの静謐なフォトジェニーを強調したかったからか、この作品をサイレントとして撮った。この印象的な戦略はなかなか効果があったようにも思われるが、単に音響トラブルなのではないかと観客に誤解される危険性もある気がする。
 小野さやかの「八十八ヶ所巡礼」は、お遍路めぐりと死別がテーマの作品だが、どこかほっこりとするところがいい。小野のデビュー作はちっともほっこりしていない作品だったが、本作はきっと、被写体となっている山田さんが、いろいろ深い人生を刻んだ人でありながら、基本的にとてもいい人だから、ほっこりするのだろう。私は、糞みたいな人間の方が映画的に映えると思ってしまうひねくれた人間だが、いい人の映画もまたいいもんだなと素直に思えた。
 山内大輔の「ノブ江の痣」は、森羅万象とほたるの怪優ぶりがいかんなく発揮された、パンクでゴシックな作品だ。たえず粘液的な音と屍臭が漂うこの「ホラー映画」には、生の中に紛れ込んでくる死、あるいは仏教的無常観のようなものを感じてしまう。ところで、こんな映画を撮る山内氏とはどんな人間なのだろうと思っていたが、先日試写会の打ち上げでお話したら、普通に気のいいあんちゃんだった。でも、もっと飲むと暴れだしそうな危険を秘めている気もした。  小口容子は普段から飲み友だちである。前述の宴席でいまおかしんじ氏から「あなたの映画、狂ってるねえ、わっはっは!」と突っ込まれ、しおらしく苦笑される小口女史であったが、やはりこの人の作品には狂気が秘められている。現実と虚実、滑稽と悲劇の境界上をゆらめく「泥酔して死ぬる」の妖しさは麻薬的である。アル中の中のアル中伊牟田耕児の一言一言には箴言としてのリアリティが潜み、三ツ星レストランの残飯のアニメーションの終末観には曼荼羅的な崇高を感じる。あと、小口さん、脱ぐ必要もないのに脱ぐところが偉い。
 山内、小口と濃口の作品が続いて、最後にサトウトシキの「もっとも小さい光」でしみじみと〆られるところに、この作品集の順番の妙がある。モノトーンで抒情的な作風だが、男目線の物語に、するっとさりげなく女性の主観をすべりこませるのが巧みだ。ほたる、櫻井、影山の演技が、母、息子、息子の恋人それぞれの立場の多声的な響きあいを作り、その効果で、立体的な感動がじわっと醸し出される。作品集のテーマである別れを予感させつつも、なにかしらの希望も感じさせてくれる佳作である。
 作家主義の映画は規模が小さい。作家主義の映画はインディーズでざらついた質感だ。しかし作家主義の映画には映画本来の力強さとワクワク感がある。昨今、そういう映画が、どんどん見られなくなってきている。そういう映画を見られる映画館がどんどんなくなってきている。そういう意味で、今こういう映画が作られたこと、こういう映画をかける映画館があることには、大きな意味があると思う。

――尾崎文太(大学教員/文化研究)