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コメント頂きました!(にいやなおゆき・アニメーション作家)

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昔々、名画座に通い始めた頃。なぜ恋愛映画の二本立てとかアクション映画の三本立てとか、同ジ
ャンルの作品でプログラムを組むのか不思議だった。『猿の惑星』&『若草物語』二本立てとか、
『さらば宇宙戦艦ヤマト』&『東京物語』&『グリズリー』三本立てとかやってほしいのに……。
 『短編集 さりゆくもの』は、様々な技法とジャンルで作られたオムニバスだ。35ミリフィルムサイ
レント、家庭用ビデオお遍路ドキュメンタリー、実写8ミリフィルム&アニメーション混合ドラッグ
ムービー、血みどろホラーなどなど。まさに、三十数年前の僕が望んでいた異種格闘技プログラムだ。
 しかし、テーマは統一されている。『さりゆくもの』というタイトル通り、どの作品も人と人の否
応のない別れが描かれている。タイトルは『さりゆくもの』だが、各作品の視点は「さられる」側だ。
あ、小口容子さんの『泥酔して死ぬる』は「さる」のも「さられる」のも自分か……。
 そして、我々観客は否応なく「さられる」側だ。鈴木清順が「花火のように華々しく、ぱっと開い
てぱっと散る。映画はそういうもの」と語っていたことを思い出す。結局、映画というもの自体が
「さりゆくもの」ではないのか。『短編集 さりゆくもの』の尺は89分。今時の映画としては短い。
 しかし、五本の短編に顕れては消えていく「さりゆく」人々の濃厚さ、存在感はどうだろう。企画
の発端であり、オムニバスの通奏低音となっている『いつか忘れさられる』自体、ほたるさんの「さ
られる」実体験から生まれたものだ。この作品は35ミリフィルム撮影、無音、最小限の字幕だけで語
られる。
 劇中の彼らが、何を話し何を聞いているのか。それを知ることもできず、我々は「さる」者と「さ
られる」者を見つめ、見送ることしかできない。しかし人は儚く咲いて消える花火の色と光を忘れる
ことはないだろう。 『八十八ヶ所巡礼』『ノブ江の痣』『泥酔して死ぬる』『もっとも小さい光』も
同様、それぞれの色と光を放つ小さな花火なのだ。
 『短編集 さりゆくもの』は、大声で微に入り細に入り説明し、脇の下をくすぐり、多数決に同意を
求め、否応なく価値観を共有したがる「コンテンツ」ではない。見ようとしなければ見えない、聞こ
うとしなければ聞こえない、常にさりゆくもの=映画なのだ。

ーにいやなおゆき(アニメーション作家)

沖島監督の「WHO IS THAT MAN!? あの男は誰だ!?」、そして「いつか忘れさられる」の元フィルム

「色道四十八手 たからぶね」特撮監督のにいやさんにコメント頂きました!

「乙姫二万年」はコロナ禍が終息するまで上映はお休みだそうですが、、上映始まったらぜひ!

トップ画像はHPよりお借りしました。

https://otohime20000.wixsite.com/otohime20000

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コメント頂きました!(今泉浩一・俳優/映画監督)

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人は何人たりとも遅かれ早かれ必ず死ぬ。自分もそう遠くない将来、死ぬだろう。そしてみな「いつか忘れさられる」。しかし重要なことは、人として生きている間にどう生きるか、ということではないか?と、ほたる監督作「いつか忘れさられる」の初号試写を観た時に思った。

その初号試写のあとの打ち上げでたまたま同じテーブルに着き話しをしていた知人が、その2ヶ月後に亡くなった。打ち上げの席で、自分より若い彼は「いつか今泉さんと一緒に仕事がしたい」と言ってくれた。この10年の間に4回救急搬送され死にかけている自分は「いつ死んじゃうかわからないから、早くしてね」と彼に言った。彼は「わかりました」と笑って答えていたけれど、その彼の方が先に死んでしまった。いつからかもう、誰の訃報を聞いても驚かなくなっている自分がいる。「人はいつ死んでもおかしくないのだ」と、生き延びてしまった自分は思った。自分はたまたま病院のベッドの上で目が覚めたけれど、そのまま目が覚めなかった可能性も十分あったのだ。これは「まだやるべきことが自分には残っているのではないのか?」とも思った。この10年の間に何回も自分に問いかけた思いだ。その思いは、2020年になって更に強くなっていった。

人は「いつか忘れさられる」。しかし、忘れられない人や物、出来事というものは誰にでもあるだろう。やはり重要なことは、生きている間になにをし、なにを残し、なにを捨て、どう生きていくかだと確信した。そしてその答えも朧げながら見えてきたのであった。けれどもその思いとは逆行するように、やりたいことが思うように、というか、ほぼなにもできなくなってしまった2020年。自分は2021年をどう生きていけばよいのだろう、とひとりで問答し、葛藤し、最後は途方に暮れる日々が続いた。

時を経て、短編「いつか忘れさられる」は、短編集「さりゆくもの」に変化した。 「さりゆくもの」と名付けられた映画に対し、自分はある種の覚悟を持って対峙していたように思う。マスクを着けたまま文字通り息苦しい感覚のまま観たが、観終わったあとのそれは、「生きていくこと」へのヒントがいっぱい詰まっているように感じ、同時に、「お前にはまだ生きてやるべきことがあるのだ(だから、まだ殺さねーよ)」とあらためて言われ、そっと背中を押されたような気がした。きっと誰かが助けてくれる、とも。それは、とても穏やかな不思議な感覚だった。そのことが忘れられない。 劇場を出た外の世界はなにも変わらず息苦しい地獄のようなままだったが、「ここをサバイブしていかなければならないのだ」と10年前に障害者になっても去りゆきそびれた自分は思った。

映画「さりゆくもの」は必ずしも「死」の映画ではない。が、しかし、映画を観た自分は、以前にも増して「生」に対する執着が強固なものになっていることに気がついた。それは、プロデューサーほたるがくれた贈り物だと思った。

ー今泉浩一(俳優/映画監督)

今泉くんがコメント書いてくれました。役者始めてからずっと仲良くしてくれている友人。そして映画監督。

コロナ禍で撮影難航しているみたいですが、新作楽しみにしてます。

トップの画像は香港国際映画祭の「家族コンプリート」上映&舞台挨拶記念撮影@アニエスb劇場。
そしてこちらは上映の合間に沙田の萬佛寺へ(私の希望で)遊びに行くところ。
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コメント頂きました!(尾崎文太・大学教員/文化研究)

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 90年代の初め頃だったか、お茶の水のアテネフランセに通っていた頃、フランス語原典講読の授業でヒチココ=オークシアンhitchcocko-hawksienという形容詞を習った。シネフィルを自称していた講師の解説によると、それは日本語ではヒッチコック=ホークス主義と訳すのだが、ヌーヴェルヴァーグの作家たち、とりわけトリュフォーが好んだ用語で、映画作品の価値を決めるのは、女優や俳優でも、有名な原作でもなく、なにより映画監督であるという主張だということだった。ヌーヴェルヴァーグの作家たちは、「映画監督」よりも「映画作家cinéaste」という語を好んだ。いわゆる作家主義というやつだ。

 20代そこそこだった私は、なるほど映画とは奥深いものだと感心したものだったが、ちょうど同じ時期、同じ施設で、「新日本作家主義列伝」と銘打たれたピンク映画の特集上映が行われていたことに気づくだけの感性を、当時の私は持ち合わせていなかった。ポスト=ロマンポルノ時代に「ピンク四天王」と呼ばれた、強烈な個性を持つ(それゆえ一般の客がつかない)四人の映画作家たちを特集したこの企画が、当時いかに画期的なものであったのかを聞かされるのは、それから何年も後のことであった。

 『短篇集 さりゆくもの』のラストを飾る「もっとも小さい光」のサトウトシキはまさにピンク四天王の一角である。また、この短編集の発案者であり「いつか忘れさられる」を撮ったほたるもまた、ピンク四天王たちに愛された異端の女優だ。そのようなスタッフの性質もあってか、この短篇集では、それぞれの監督の個性が激しく四方八方にせり出してくる。まさに「作家主義的な」と形容したくなるような、五者五様の世界観が強烈にぶつかり合う、印象的な小品集である。

 ほたる監督の「いつか忘れさられる」は、35mmフィルムの質感にこだわった作品だ。そしてそのフィルムならではの美しさに抒情性と詩心を与えているのは撮影監督芦澤明子のカメラだろう。ほたるはこのフィルムならではの静謐なフォトジェニーを強調したかったからか、この作品をサイレントとして撮った。この印象的な戦略はなかなか効果があったようにも思われるが、単に音響トラブルなのではないかと観客に誤解される危険性もある気がする。

 小野さやかの「八十八ヶ所巡礼」は、お遍路めぐりと死別がテーマの作品だが、どこかほっこりとするところがいい。小野のデビュー作はちっともほっこりしていない作品だったが、本作はきっと、被写体となっている山田さんが、いろいろ深い人生を刻んだ人でありながら、基本的にとてもいい人だから、ほっこりするのだろう。私は、糞みたいな人間の方が映画的に映えると思ってしまうひねくれた人間だが、いい人の映画もまたいいもんだなと素直に思えた。

 山内大輔の「ノブ江の痣」は、森羅万象とほたるの怪優ぶりがいかんなく発揮された、パンクでゴシックな作品だ。たえず粘液的な音と屍臭が漂うこの「ホラー映画」には、生の中に紛れ込んでくる死、あるいは仏教的無常観のようなものを感じてしまう。ところで、こんな映画を撮る山内氏とはどんな人間なのだろうと思っていたが、先日試写会の打ち上げでお話したら、普通に気のいいあんちゃんだった。でも、もっと飲むと暴れだしそうな危険を秘めている気もした。

 小口容子は普段から飲み友だちである。前述の宴席でいまおかしんじ氏から「あなたの映画、狂ってるねえ、わっはっは!」と突っ込まれ、しおらしく苦笑される小口女史であったが、やはりこの人の作品には狂気が秘められている。現実と虚実、滑稽と悲劇の境界上をゆらめく「泥酔して死ぬる」の妖しさは麻薬的である。アル中の中のアル中伊牟田耕児の一言一言には箴言としてのリアリティが潜み、三ツ星レストランの残飯のアニメーションの終末観には曼荼羅的な崇高を感じる。あと、小口さん、脱ぐ必要もないのに脱ぐところが偉い。

 山内、小口と濃口の作品が続いて、最後にサトウトシキの「もっとも小さい光」でしみじみと〆られるところに、この作品集の順番の妙がある。モノトーンで抒情的な作風だが、男目線の物語に、するっとさりげなく女性の主観をすべりこませるのが巧みだ。ほたる、櫻井、影山の演技が、母、息子、息子の恋人それぞれの立場の多声的な響きあいを作り、その効果で、立体的な感動がじわっと醸し出される。作品集のテーマである別れを予感させつつも、なにかしらの希望も感じさせてくれる佳作である。

 作家主義の映画は規模が小さい。作家主義の映画はインディーズでざらついた質感だ。しかし作家主義の映画には映画本来の力強さとワクワク感がある。昨今、そういう映画が、どんどん見られなくなってきている。そういう映画を見られる映画館がどんどんなくなってきている。そういう意味で、今こういう映画が作られたこと、こういう映画をかける映画館があることには、大きな意味があると思う。

ー尾崎文太(大学教員/文化研究)

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コメント頂きました!(井川淳子・美術家)

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新宿での最終上映日にすべり込みで間に合った。
最初の短篇「いつか忘れさられる」は、不在の家族をめぐるサイレントフィルム。人の営みは淡々と
続いているが、家族の会話は聞こえない。皆が集ってもどこかがらんとした居間、光が反射する壁な
ど、家の描写がいつまでも目の裏に残る。サイレントであることが、家を浮き上がらせたのだろうか。
仏間には亡くなった家族の写真が額に入れて掲げられていた。すべての人はやって来て去っていく。
「短篇集 さりゆくもの」の5篇は、切なく愛しく、時にはぎょっとし、滑稽でもあって、その度に
私はジンとしたり、笑ったりしながらスクリーンを見つめていた。
今、こうやってそれぞれの感触を思い起こすと、映画こそが「さりゆくもの」なのだと気づかされる。
スクリーンに掲げられた一篇一篇が、部屋に掲げられていた去っていった人たちの写真と重なってい
く。
そして映画館とは、すべてを収める家のようにも思えてくる。

井川淳子(美術家)

画像は藍画廊での展示紹介ページからお借りしました。

https://www.tokyoartbeat.com/event/2021/32F0

井川淳子「いつか私は(天国篇5歌)」

素材: ゼラチン・シルバー・プリント サイズ: 可変 撮影年: 2020年

こちらの展示も素晴らしかったです。

http://nohako.com/exhibition/16-itsuka-junko-ikawa.html

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コメント頂きました!(坂本礼・映画監督)

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監督でも母親役でも、ほたるさんの透明度は変わらない。
ほたるさんに上野オークラのスクリーンで出会った日は、いつのことだろう。
欲望が渦巻く中、スクリーンから感じる透明感に、僕は心を奪われた。あの日からずいぶん月日が過ぎた。『さりゆくもの』。僕もだなぁ。

―坂本礼(映画監督)

坂本さんと最初の現場はどれだったか、、長い時間が経ってますが、

こちらの坂本さんの印象も変わってないです…。

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コメント頂きました!(高柳哲司・アニメーション演出家)

投稿日:

色々なジャンルの作品があり、素直に楽しめた五本立てでした。

ちょっと笑えて、ちょっと怖くて、ちょっと狂ってて、ちょっと人を好きになって…

― そして最近、身近で逝ってしまったあの人の事をちょっとだけ考えさせてくれました。

高柳哲司(アニメーション演出家)

高柳さん、コメントありがとうございます!

「色道四十八手 たからぶね」の試写で来られていて、打ち上げでお話ししたのですが、覚えていてくださって嬉しかったです。

「おそ松さん」やってるんだ!!

ほたる

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コメント頂きました!(向井三郎・画家)

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「さりゆくもの」を観てから2週間近く経った。それぞれの作品についてはもはや忘れかけているところもある。早すぎると思うが、日々なる忘却。
5編の映像の断片が混ざりあい浮かんでは沈み、そこにあの日の新宿の風景までもが混入して、まるで新しい1本の映像みたいになっている。それは脳内スクリーンで上映される自分にしか見ることのできない映像だ。
この5本の短編も誰かの脳内の映像を見るような肌触りをここかしこに感じた。そういう肌触りは大好きだ。半透明の羊羮を光に透かしたような密な奥行きがあって、しっとり、ねっとり。映画館で味わえて良かった。

向井三郎(画家)

http://saburomukai.com

画像はHPよりお借りしました。

向井さんとは、とある撮影現場で一緒にお手伝いしてました。

実は絵描きさんだと聞いて個展伺ったのですが、とても素晴らしかったです!

次の展示も楽しみにしてます。

このところ低気圧のせいか、ケイズシネマの上映が終わって打ち合わせが続いていたので疲れたのか頭痛がひどくて、

コメントいただいてすぐに更新できませんでした。ごめんなさい。

ほたる

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コメント頂きました!(福原彰・映画監督/脚本家/新東宝映画プロデューサー)

投稿日:

ほたるさんの映画はもとより、番組全体が想像以上によくまとまった面白い内容でした。「さりゆくもの」という企画のテーマは「愛と死」ということかもしれませんが、 20年前は家族の崩壊や関係の不可能性についてよく語られていたのが、ほたるさんもトシキさんもひとめぐりして家族の喪失だけでなく回復の物語を語っているのが印象的でした。あるいはこれはほたるさん固有の指向やテーマということなのでしょうか。
「いつか忘れさられる」は家族の死という重いテーマを扱いながら、娘の視点がひとつのポイントになって、家族がひとつの宇宙であるように感じられる稀有な瞬間がありました。登場人物が言葉で語らない分、古い日本家屋の陰影とまぶしいほどの雪景色を見事にとらえたカメラがなんともいえない雄弁さで語っているようで。母を見つめる娘の無垢で深みのある視線が目に焼き付きました。父は慟哭し、母はじっと耐える……これも凄いなと思いましたが、彼岸で息子を迎える母の笑顔がすべてを物語っているようで。息子の足音を聞いてゆっくり振り返るほたるさんの顔をじっくりアップで撮ってみたいと思いましたが、これは部外者の勝手な妄想ですw
トシキさんも相変わらず見事で……もはや名匠の領域ですね。

―福原彰(映画監督/脚本家/新東宝映画プロデューサー)

福原さんとは自分が新東宝映画に出演している時からのお付き合いですが、前作「キスして。」でも色々アドバイス頂いてました。

今回もコメントいただけてありがたいです。