人は何人たりとも遅かれ早かれ必ず死ぬ。自分もそう遠くない将来、死ぬだろう。そしてみな「いつか忘れさられる」。しかし重要なことは、人として生きている間にどう生きるか、ということではないか?と、ほたる監督作「いつか忘れさられる」の初号試写を観た時に思った。
その初号試写のあとの打ち上げでたまたま同じテーブルに着き話しをしていた知人が、その2ヶ月後に亡くなった。打ち上げの席で、自分より若い彼は「いつか今泉さんと一緒に仕事がしたい」と言ってくれた。この10年の間に4回救急搬送され死にかけている自分は「いつ死んじゃうかわからないから、早くしてね」と彼に言った。彼は「わかりました」と笑って答えていたけれど、その彼の方が先に死んでしまった。いつからかもう、誰の訃報を聞いても驚かなくなっている自分がいる。「人はいつ死んでもおかしくないのだ」と、生き延びてしまった自分は思った。自分はたまたま病院のベッドの上で目が覚めたけれど、そのまま目が覚めなかった可能性も十分あったのだ。これは「まだやるべきことが自分には残っているのではないのか?」とも思った。この10年の間に何回も自分に問いかけた思いだ。その思いは、2020年になって更に強くなっていった。
人は「いつか忘れさられる」。しかし、忘れられない人や物、出来事というものは誰にでもあるだろう。やはり重要なことは、生きている間になにをし、なにを残し、なにを捨て、どう生きていくかだと確信した。そしてその答えも朧げながら見えてきたのであった。けれどもその思いとは逆行するように、やりたいことが思うように、というか、ほぼなにもできなくなってしまった2020年。自分は2021年をどう生きていけばよいのだろう、とひとりで問答し、葛藤し、最後は途方に暮れる日々が続いた。
時を経て、短編「いつか忘れさられる」は、短編集「さりゆくもの」に変化した。 「さりゆくもの」と名付けられた映画に対し、自分はある種の覚悟を持って対峙していたように思う。マスクを着けたまま文字通り息苦しい感覚のまま観たが、観終わったあとのそれは、「生きていくこと」へのヒントがいっぱい詰まっているように感じ、同時に、「お前にはまだ生きてやるべきことがあるのだ(だから、まだ殺さねーよ)」とあらためて言われ、そっと背中を押されたような気がした。きっと誰かが助けてくれる、とも。それは、とても穏やかな不思議な感覚だった。そのことが忘れられない。 劇場を出た外の世界はなにも変わらず息苦しい地獄のようなままだったが、「ここをサバイブしていかなければならないのだ」と10年前に障害者になっても去りゆきそびれた自分は思った。
映画「さりゆくもの」は必ずしも「死」の映画ではない。が、しかし、映画を観た自分は、以前にも増して「生」に対する執着が強固なものになっていることに気がついた。それは、プロデューサーほたるがくれた贈り物だと思った。
ー今泉浩一(俳優/映画監督)
今泉くんがコメント書いてくれました。役者始めてからずっと仲良くしてくれている友人。そして映画監督。
コロナ禍で撮影難航しているみたいですが、新作楽しみにしてます。