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コメント頂きました!(尾崎文太・大学教員/文化研究)

 90年代の初め頃だったか、お茶の水のアテネフランセに通っていた頃、フランス語原典講読の授業でヒチココ=オークシアンhitchcocko-hawksienという形容詞を習った。シネフィルを自称していた講師の解説によると、それは日本語ではヒッチコック=ホークス主義と訳すのだが、ヌーヴェルヴァーグの作家たち、とりわけトリュフォーが好んだ用語で、映画作品の価値を決めるのは、女優や俳優でも、有名な原作でもなく、なにより映画監督であるという主張だということだった。ヌーヴェルヴァーグの作家たちは、「映画監督」よりも「映画作家cinéaste」という語を好んだ。いわゆる作家主義というやつだ。

 20代そこそこだった私は、なるほど映画とは奥深いものだと感心したものだったが、ちょうど同じ時期、同じ施設で、「新日本作家主義列伝」と銘打たれたピンク映画の特集上映が行われていたことに気づくだけの感性を、当時の私は持ち合わせていなかった。ポスト=ロマンポルノ時代に「ピンク四天王」と呼ばれた、強烈な個性を持つ(それゆえ一般の客がつかない)四人の映画作家たちを特集したこの企画が、当時いかに画期的なものであったのかを聞かされるのは、それから何年も後のことであった。

 『短篇集 さりゆくもの』のラストを飾る「もっとも小さい光」のサトウトシキはまさにピンク四天王の一角である。また、この短編集の発案者であり「いつか忘れさられる」を撮ったほたるもまた、ピンク四天王たちに愛された異端の女優だ。そのようなスタッフの性質もあってか、この短篇集では、それぞれの監督の個性が激しく四方八方にせり出してくる。まさに「作家主義的な」と形容したくなるような、五者五様の世界観が強烈にぶつかり合う、印象的な小品集である。

 ほたる監督の「いつか忘れさられる」は、35mmフィルムの質感にこだわった作品だ。そしてそのフィルムならではの美しさに抒情性と詩心を与えているのは撮影監督芦澤明子のカメラだろう。ほたるはこのフィルムならではの静謐なフォトジェニーを強調したかったからか、この作品をサイレントとして撮った。この印象的な戦略はなかなか効果があったようにも思われるが、単に音響トラブルなのではないかと観客に誤解される危険性もある気がする。

 小野さやかの「八十八ヶ所巡礼」は、お遍路めぐりと死別がテーマの作品だが、どこかほっこりとするところがいい。小野のデビュー作はちっともほっこりしていない作品だったが、本作はきっと、被写体となっている山田さんが、いろいろ深い人生を刻んだ人でありながら、基本的にとてもいい人だから、ほっこりするのだろう。私は、糞みたいな人間の方が映画的に映えると思ってしまうひねくれた人間だが、いい人の映画もまたいいもんだなと素直に思えた。

 山内大輔の「ノブ江の痣」は、森羅万象とほたるの怪優ぶりがいかんなく発揮された、パンクでゴシックな作品だ。たえず粘液的な音と屍臭が漂うこの「ホラー映画」には、生の中に紛れ込んでくる死、あるいは仏教的無常観のようなものを感じてしまう。ところで、こんな映画を撮る山内氏とはどんな人間なのだろうと思っていたが、先日試写会の打ち上げでお話したら、普通に気のいいあんちゃんだった。でも、もっと飲むと暴れだしそうな危険を秘めている気もした。

 小口容子は普段から飲み友だちである。前述の宴席でいまおかしんじ氏から「あなたの映画、狂ってるねえ、わっはっは!」と突っ込まれ、しおらしく苦笑される小口女史であったが、やはりこの人の作品には狂気が秘められている。現実と虚実、滑稽と悲劇の境界上をゆらめく「泥酔して死ぬる」の妖しさは麻薬的である。アル中の中のアル中伊牟田耕児の一言一言には箴言としてのリアリティが潜み、三ツ星レストランの残飯のアニメーションの終末観には曼荼羅的な崇高を感じる。あと、小口さん、脱ぐ必要もないのに脱ぐところが偉い。

 山内、小口と濃口の作品が続いて、最後にサトウトシキの「もっとも小さい光」でしみじみと〆られるところに、この作品集の順番の妙がある。モノトーンで抒情的な作風だが、男目線の物語に、するっとさりげなく女性の主観をすべりこませるのが巧みだ。ほたる、櫻井、影山の演技が、母、息子、息子の恋人それぞれの立場の多声的な響きあいを作り、その効果で、立体的な感動がじわっと醸し出される。作品集のテーマである別れを予感させつつも、なにかしらの希望も感じさせてくれる佳作である。

 作家主義の映画は規模が小さい。作家主義の映画はインディーズでざらついた質感だ。しかし作家主義の映画には映画本来の力強さとワクワク感がある。昨今、そういう映画が、どんどん見られなくなってきている。そういう映画を見られる映画館がどんどんなくなってきている。そういう意味で、今こういう映画が作られたこと、こういう映画をかける映画館があることには、大きな意味があると思う。

ー尾崎文太(大学教員/文化研究)